ブラック・フェミニストの主張 ベル・フックス
報告 粟谷
第1章 黒人女性:フェミニズム理論を形成する
アメリカのフェミニズムは、性差別の抑圧でもっとも犠牲になっている女性から立ち現れてきたことがない
ベティ・フリーダン「名前のない問題」
大学教育を受けて結婚した中・上流階級の白人女性の苦悩にしか言及していない。
彼女は自らの階級差別や人種差別、アメリカ人女性一般に向けられた自分の性差別的な態度に注意が向かないようにした。
フリーダンと同様に、今日でもフェミニズムの言説を支配している白人女性たちは、女性の現実に対する自らの見解が集団としての<女性たち>の実体験にも当てはまるものかどうかをめったに疑問視しない。
フェミニストが人種による階級の分断を攻撃してこなかったために、人種と階級の結びつきは隠蔽されてしまった。アメリカ社会に見られる階級構造は白人優位主義という人種差別的な政治によって形成されてきたものなのに。
レア・フリッツ⇒多くのフェミニストの言説に特徴的に現れる女性たちのあいだの社会的分断を意識的にごまかした。人種と階級のアイデンティティが女性たちが分かち合っている共通の体験をしのぐほどの差異を生み出しているのに。
ベンジャミン・バーバー⇒反論すべき点もあるが、同意できる。
「苦悩とは必ずしも一つのものさしで計れるような固定化された普遍の体験ではない。云々」
「すべての女性は抑圧されている」⇒階級や人種や宗教や性的指向などの要因によって個々の女性の生活に性差別が及ぼす抑圧的な力の度合いを決定する多様な経験が生み出されるわけではないことをほのめかしている。
クリスティ−ヌ・デルフィの場合⇒抑圧ということばによってフェミニストの闘いがラディカルな政治的枠組みのなかに位置づけられる
しかし、アメリカのフェミニストが「共通の抑圧」を強調するのは保守、リベラル派の女性たちが自らの階級の利益を主張し推奨できるような運動を形成できるようにラディカルな政治用語に仮面をかぶせるため。<一般市民>なども。
もし黒人女性が言論の場を獲得して自分たちの「抑圧」について語ったとしても、あらゆる方面から酷評や攻撃を受けるはめになっていただろう。
当初、女性運動に積極に参加するためには、女性たちはその孤城の中に閉じこもり、連絡を取り合う場を作り上げなければならなかった。『リベレーション・ナウ』などの論文集の読者は必ずしも白人の中産階級でもなければ大学出身者、成人にも限られなかった。
しかし長続きはしなかった。
社会的平等、等価な労働に対する等価な賃金の要求⇒資本主義家父長制に難なく取り込まれてしまった。
ジーラ・アイゼンスタイン⇒フェミニズムの理論構成の中でリベラルな個人主義のイデオロギーが働いている。「競争主義的でばらばらのリベラルな個人主義」
フェミニズムの言説を支配している女性たちの排他的行為⇒フェミニズムにはそれなりの綱領があるフェミニズムの覇権主義的支配
スーザン・グリフィン⇒理論がイデオロギーに姿をかえるとき
フックス⇒アメリカ南部における府県支配的な黒人労働者階級の家庭で育つ。怒りによって男性支配の政治的仕組みを疑問視する。
白人のフェミニストは黒人女性たちがフェミニズム的な考えを声にし始めるまで、黒人女性に対する性差別的な抑圧の存在にあたかも気づかなかったかのようにふるまう。
中産階級と上流階級の白人女性が「抑圧されている」ことを指し示す理論を必要としているのは特権的な生活状況を指し示す新たな指標を得るため。抑圧されてきた黒人女性たちは<女性の抑圧>を掲げた集団の綱領には何も解放的なものを見出さない。
フックス⇒スタンフォード大学の女性学の講座には共感を抱けなかった。フェミニストのグループに参加したときに自分や非白人の女性が丁寧に扱われていることに気づく。 つまるところ平等には扱ってくれなかった。大学教育を受けた黒人女性は単なる模倣者にすぎないと片付けられる。
白人のフェミニストが黒人女性を黙らせようとする試みはめったに文章化されない。
アニタ・コーンウェル⇒「人種差別に突き当たることの恐怖が黒人女性が女性運動に参加することを拒んでいる」
白人女性の言説は白人の観客に向けられており、その焦点は自らの態度を改めることに終始しており、人種差別を歴史的および政治的文脈の中で見直そうとするものではないから。つまり「対象物」
白人女性の黒人女性に対するステレオタイプ
リリアン・ヘルマン⇒彼女が言及している黒人女性は決して平等な身分におかれたことのない人々のこと。自分自身が彼女たちに及ぼしている権力を認めるのではなく、黒人女性たちの手に権力をゆだねている。そうすることで関係性を神話化している。
黒人女性 神秘的な力と強さ
白人女性 無力で受動的な犠牲者
つまり
特権に恵まれたフェミニストたちは多様な女性たちからなる集団に語りかけることがたいてい出来ないし、話し合うことも代弁することもできない。⇒性と人種と階級の相互関係を満足に理解しておらず、もしくはその相互関係を深刻に受け止めることを拒んでいるから。
集団としての黒人女性は、この社会の中で奇妙な立場に置かれている。職業的な階段の一番下を占めているばかりか、全体的な社会的立場は他のどの集団よりも低い。性差別や人種差別、階級的な抑圧の矢面に立たされている。
組織的な「他者」を持たない黒人女性の意識は、ある程度の権限を持っている人々とは異なる世界観を構築するように形作られているのかもしれない。私たち黒人女性こそフェミニズム理論の構築において中心的な役割を演じることが可能であり、ユニークで貴重な貢献をしていけるはずだということだ。
第2章 フェミニズム:性差別の抑圧をなくすための運動
フェミニズムの言説において重要な問題
⇒フェミニズムとは何なのかという点で多様な意見があり、統一の観点から提出された定義であろうと合意できないことである。
カルメン・バルケス⇒アメリカ人にとってのフェミニズムはそれぞれの好きなことを意味するものなってしまった。
これはラディカルな政治運動としてのフェミニズムへの無関心が広まっていることを示している。
アメリカのフェミニズム⇒女性たちが男性との社会的な平等をめざす運動だとみなしている。
非白人の女性たちなら女性解放を自分たちが社会のなかで男性と平等な立場を獲得することだとは定義しなかったに違いない。⇒つまり、自分と同じ集団に属する男性たちは社会的、経済的パワーを持っていないことを知っている。そんな男性たちと同じ社会的立場を獲得することは解放ではない。
セスティン・ウェア⇒ラディカル・フェミニズムは、あらゆる人間関係における支配とエリート主義とを撲滅する。究極の善を自己決定する。
ジーラ・アイゼンスタイン⇒リベラル・フェミニストのプログラムのラディカルな意味合い。ヒューストン会議
支配システムを撲滅するという想定にはつながらない。
リベラリズムの限界 ミハイロ・マルコビッチ⇒利己主義や攻撃性、征服し支配しようとする衝動などを人間の性癖として意義付けるなら、市民社会における抑圧は生活における現実でありつづける。
ジャンヌ・グロス⇒フェミニストの戦略の接収 資本主義は女性たちが夢見る変化を、資本主義が独特の形で変化を接収していく。
リベラル・フェミニストが必要性を訴える改革の多くはひとえに資本主義者や物質主義者の価値観を強化するばかりで、真に女性を経済的に解放することはできなかった。
リベラルな女性たちだけではなく、フェミニストが生み出した社会改革から何らかの形で利益を享受できた女性たちの大半はフェミニズムの提唱者だと見られることを望まない。アフリカ系、アジア系、ヒスパニック系アメリカ人の女性はフェミニズム運動を支持していても、個人的には隔絶されているように感じている。
ボブ・グリーン⇒多くの女性がフェミニズムという言葉を明らかに避けている。
⇒フェミニズムという言葉の意味が不確かなため。フェミニズムはしばしば白人女性の権利獲得の努力と等しくみなされる。
フェミニズムを定義しようとする試みのほとんどは、本質的にリベラルであり、個々の女性の自由や自己決定権を重視している。⇒バーバラ・バーグ
フェミニズムとは
性差別的な抑圧をなくすための闘いである。そう考えれば様々なレベルで西欧文化に浸透している支配というイデオロギーを撲滅するための闘いにもなり、人々の自己開発が帝国主義や経済的拡大や物質欲をしのぐような社会を再構成するための努力にもなる。
「個人的なことは政治的」というスローガン⇒自分自身の政治的現実について、さらには女性を集合的なグループとしてみなすことについて洗練された理解を抱けない。個人的経験を語ることを奨励された。
「男は敵」⇒マーリン・ディクソン「個人と個人を対立させ搾取の社会的基盤をベールに包んでしまう」
⇒フェミニズムをカウンター・カルチャー的な女性中心の世界で暮らすこと同一視すること問題。
ほとんどの女性を切り捨て、運動を閉ざしてしまうような障壁を作ってしまう。
フェミニズムの闘いは個人としての女性がどこにいようと始めることができるものだと主張するなら、個々の女性の集合的な経験に注目しながら常に大多数を基盤とした運動を生み出していけるだろう。
セパレイティストなコミュニティが女性たちによって形成されたので、焦点は空間の構築からアイデンティティの強調に移行しつつある。
しかし黒人をはじめとする他の民族の女性たちは搾取と抑圧に遭いながらも生活面では女性のなかにいたために(これがシスターフッド?)コミュニティの必要性を感じていなかった。
個人のアイデンティティやライフスタイルを強調することによって、私たちは革命の枢軸に結びつけられていく。
フェミニズムの闘いへの関与は政治的献身だと強調することで「私はフェミニスト」という表明を避けることができるし、「私はフェミニズムを支持している」と表現することもできる。アイデンティティやライフスタイルというフェミニズムのステレオタイプから注目をそらす必要がある。
そうすれば身も心もフェミニズムに捧げているといった含みはなくなり、他の政治運動を支持している可能性が否定されることもない。
フェミニズム運動に関心を持つ黒人女性として
黒人であることは女性であることよりも重要か、性差別は人種差別よりも重要か、という問いを受ける。
こういった問いは、あれか/これかという競争主義的(?)思考と、自己は他者と抗することで形成されるという信念に根ざしている。両立ではなく対立。
ここで「私はフェミニズムを支持している」という表現が有益な手段になる。
性差別の抑圧を強調し、社会的平等という概念から離れた定義に移行することも理論構築における態度の変化にもつながる。これまでの理論は白人の学者の女性たちによるヘゲモニー的な支配下に置かれた作業だった。理論の構築は白人知識人の領域にあるとする性差別的/人種差別的/階級差別的概念を再強化してしまう。
⇒黒人女性は「体験にもとづく」作業や個人的な人生語りによって貢献せよ。
これだけでは理論を構築できない。
フェミニズムを性差別の抑圧をなくすための運動だとして定義することが理論構築にとって欠かせないのは、それが探求と分析の方向性を指し示す出発点だからである。
研究会での報告 女性と文化研究会20021127 於豊中市立千里中央図書館
レジュメ2002@粟谷佳司
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