ジェンダートラブル 第2章 禁止、精神分析、異性愛のマトリックスの生産
報告 粟谷

起源という考え→女の抑圧の歴史が偶発的でしかないことを立証するために「家父長制」の前の時代→家父長制以前というのも物象化ではないのかという疑問
起源の捏造は法の構築によって完結し、法の構築を正当化するような必然という見せかけをとる単線的な物語

レヴィ=ストロースの構造主義文化人類学の自然/文化の区別→セックスが自然、ジェンダーが文化→しかしこのような考え方そのものが言説の編成である。
文化としての男/自然のイメージの女→理性や精神を男性性やエイジェンシーに関連させ、身体と自然を男性的な主体からの意味付けを持つ女性的なものという物言わぬ現実と見なす考え方のひとつの例。
文化によって自然を言説によって生産している。この二分法は本当に必要なのか。だがこの世に存在しているのが社会的に構築されたジェンダーだけならば、その外部は存在せず、前―文化的な「まえ」にその認識上の足場を置くことは出来ない。
ジェンダー構築のメカニズム→偶発性

1構造主義の危うい交換

レヴィ=ストロース→あらゆる親族構造にはそれを特徴づける規則的な交換という普遍構造が存在する→「法」を単数とみなす傾向がある。
『親族の基本構造』→親族関係を強化すると同時に差異化する役目をする交換の対象は女。贈与として与えられる。→交易を容易にする機能的な目的のほかに、行為をつうじて差異化される各氏族の内的結束を強めるという象徴的、儀礼的な目的も。花嫁は男をつなぐ関係項として機能する。→アイデンティティの不在の場所となることによって男のアイデンティティを反映する。
レヴィ=ストロースの普遍性の論理は、1アイデンティティ主義の立てる仮説はすべて普遍性の論理のなかに位置付けられること、2普遍性の論理で記述される文化の現実のなかで女が従属的立場を占めることとアイデンティティ主義の論理が関係している。

男根ロゴス中心主義を効果的に批判するためには、レヴィ=ストロースによって明確にされた象徴界の置換を必要とするのかどうかを問いかけるフェミニズム内部のおもにポスト構造主義の批判衝動。
ポスト構造主義者の全体性や普遍性への批判→シニフィアン、シニフィエのあいだの亀裂、差延。あらゆる指示作用に無限の置換を与えうるものとなる。
レヴィ=ストロースにとって男性的な文化アイデンティティは、父系氏族のあいだの差異化という行為を通じて確立される→しかし男と、男同士を差異化させる女とのあいだの「差異」においては機能しない。イリガライ→「ホモ・セクシュアリティ」
近親姦タブー→自然なセクシュアリティを禁止することによってのみ得られる非近親姦的な異性愛という人工物。
男同士の互恵関係は、男と女のあいだの根本的に非互恵的な関係や、女同士の関係不在の関係を条件づける。「象徴的な施行が出現するには、女が言葉と同じように、交換される事物となることが必要だったはず」というレヴィ=ストロースの主張は、現在から過去をみるという想定されているだけの文化の普遍構造から必然性を導きだしている。パフォーマティブに機能する推論にすぎないのではないか。象徴界が出現する瞬間を目撃することができず、かならず起こったであろう歴史を推量しているにすぎない。
イリガライ→「事物が集合する」場合に何がおこりうるかを考察し、オルタナティブなセックスの機構の予期しないエイジェンシーを示して見せた。『セックスと親族』のなかで男同士の互恵的な交換構造は、男女の非互恵的な関係、女性性、レズビアン・セクシュアリティの名辞不可能性をいかにその前提とするかを批判的に論じている。
もしも象徴界から排除されたセックスの領域があり、それによって象徴界がその及ぶ範囲を全体化できるのではなくただ覇権的な力で支配しているにすぎないということが示されれば、排除された領域をこの機構の内側、外側に置くことが可能であり、その位置づけによって介入の戦略を変えることも可能→構造主義の法の再検討
近親姦を禁じる法→族内婚を禁じる親族機構の場所。レヴィ=ストロースによれば近親姦は社会的な事実ではなく文化の幻想。無意識の近親姦の幻想に関する精神分析の洞察を支持する。禁止の効力を想定することの困難さを物語る。
またレヴィ=ストロースは、息子と母のあいだの異性愛を禁じる近親姦タブーは近親姦の幻想と同様に文化の普遍的な真理だとみなしている。いかにして異性愛の近親姦が人為のまえに存在する自然な欲望のマトリックスと見えるものになるのか。性のエイジェンシーが男であること異性愛を自然なものとみなす考え方は言説によって構築されたものにすぎず、それを基盤にする構造主義の枠組みではどこにもきちんと説明されていないのに、どこでも必ず前提とされている事柄に過ぎない。
ラカン→文化を再生産するときにはたらく近親姦の禁止と族外婚の規則。文化はおもに一対の言語構造と意味作用として理解されている。ラカンにとって息子と母の近親姦を禁止する法は親族構造を起動させる。言語構造は語りのエイジェンシーからかけ離れた存在論的な全一性を持つが、他方、法は幼児が文化に参入する個別的局面で法自身を個体化していく。起源にある快楽は主体を基礎づける一次抑圧によって喪失させられる。この場所に記号がとってかわり快楽の回復を求めようとするものとなる。言語は欲望の残余であり、文化が手を変え品を変え生産しているだけのもの。言語の意味作用の失敗は、言語の可能性に土台を与え、指示作用が可能だという言語の自惚れを刻み込んでいる禁止の当然の結果である。

2ラカン、リヴィエール、仮装の戦略

ジェンダー/セックスで「あること」はどんなことか。
ラカン→「あることであるのは何か/あることをもつのは何か」はそれに先立つ「あることが父系列機構の意味実践によってどのように制定され配置されているか」に従属する。事物は「ある」という性質をもつが、それが存在論的な身振りによって起動するようになるのは、唯一、象徴界というそれ自身が前―存在論敵である意味構造の内部において。
→したがってファルスで「あること」とはいったい何なのかをまず問わなければならない。
ファルスで「あること」→他者の欲望のシニフィアンであり、シニフィアンのように見えること
→ファルスをもつ男の立場、ファルスである女の立場
男の主体は意味を編みだし、よって意味付けをおこなうものであると見えているだけ。男の自律性は女を必要とする
女はファルスで「ある」といわれている→女が男の主体という自己基礎的な位置の「現実性」を反映しそれを再=現前させる力をもっているという意味においてである。→男でないものになること、男でないもので「ある」ことを求められる。
→あることともつことの区別と交換は象徴界すなわち父の法によって確定される。
ファルスで「ある」ということは、女が十全にその法を反映できないがゆえにつねに不満足なものになる。
他方、男はファルスを「もって」おりファルスで「ある」わけではない。ペニスは法と等価ではなく法を十全に象徴化することが出来ない。
→それゆえラカンの文脈ではもつ位置もある位置も喜劇的な失敗として理解される。
なぜ女はファルスであるように見えるのか→仮装、そのような女の位置につきもののメランコリーの効果があるからである。
仮装→「あること」が仮装なら、すべての「あること」は見せかけになる。あらゆるジェンダーの存在論は見せかけの戯れになってしまう。他方、仮装は仮装に先立つ女性性で「あること」も示唆する。男根ロゴス中心主義の意味機構をやがては解体し、置換する可能性も見せてくれる。
ラカンの分析の曖昧な構造から→一方で仮装はセックスの存在論をパフォーマティブに生産するもの、他方で男根主義の機構ではつねに表象不能とされる先在的で存在論的な女性性を前提とした女の欲望を否定するものとしても読める。前者は「見えること」と「あること」の区分が不確定だという区分の流動性の可能性を追及することになる。後者のばあいは女の欲望を取り戻し、解放するために仮面をはずすというフェミニズムの戦略を起動させる。
仮面の機能→メランコリーの体内化の戦略の一部をなすものであり、喪失が愛の拒絶から生まれるときに喪失された対象/他者の属性を自分が身に帯びようとすることである。仮面が拒絶を解決すると同時に抑え込むことが出来るのは拒絶そのものを拒絶する戦略としてアプロプリエーションがなされるから。二重の否定。
仮面と女の同性愛→仮装を通じて抑え込まれ/解決されているはずの拒絶を、女の同性愛の基盤にある絶望が呼び起こす。→しかしラカンの仮定から、異性愛が絶望した同性愛に由来することも明らかではないか。
脱性化したレズビアンの位置→セクシュアリティ自体の拒絶と見なす異性愛の男の観察視点から必然的に生まれてきたもの。
ラカンは代名詞の位置を自在に動かすことによって、誰が誰を拒絶するかということを曖昧にした。拒絶が仮面に結びつくと、拒絶の何かを温存する機能とパラレルに、仮面も喪失の隠蔽と隠蔽の保存という、メランコリーの二重の機能をもつ。
ジョーン・リヴィエール「仮装としての女らしさ」→攻撃と闘争解決の仮装としての女性性を説明する。異性愛と同性愛の境界を曖昧にする「中間タイプ」。
二つのジェンダーの属性をあわせもつことの意味を精神分析に頼りながらセックスの類型論を自然なものとみる見方について疑問を投げかけている。
ゲイの男性は異性愛を誇張する。→ラカン派の分析者なら、ファルスを彼がもとうとしているからだ。同様に、男らしさを望む女がつける仮面は、去勢によってファルスを男たちから奪ったので報復を防ぐためにファルスをもつことを断念しようとするのだと。
女は自分が去勢したいと願っている男の観客から自分の男らしさを隠そうとしてそれを承知で仮装する。だが同性愛の男は自分自身の同性愛を認めることが出来ないため異性愛を防御として誇張する。
だがリヴィエールは彼女が記述している仮装した女の同性愛についてはわかっているのだろうか。ラカンの場合と同じように、レズビアンは無性の位置、実際にはセクシュアリティを否定した位置に意味づけられている。
仮装によって隠されているのはいったい何なのか。→女性性と仮装は同義。
女性性は男への同一化を抑え込み/解決する仮面となる。仮面として女性性を装うことは、女の同性愛を否定していることを示していると同時に、否定した女という他者を誇張して体内化していることを示すもの。
構築されている男性性や女性性の概念は、解決される以前の同性愛の備給にその根をもっている。二つのものが共存していると想定、次に抑圧と排除が介入、二つのものから別々の二つのジェンダーアイデンティティが作りあげられ、その結果、アイデンティティはつねにすでに、抑圧によって個々の成分に切り分けられるまえの両性的な気質を生得的にもつものとなる。
ラカン派の言説→「分割」の概念を中心におく。ジャクリーヌ・ローズは、抑圧の結果であるセックスの分割は、アイデンティティという戦略それ自体によってかならず空洞化されることを暗示した。これは言説のまえに存在していた二重性ではない。「そして言語の外側に、女性性は存在しない」
ローズ→同一化は何らかの幻想をその理想としているがゆえに必ず失敗する。発達論の体をなす精神分析は象徴界と現実界をまちがって融合し、両者を共約不能とする決定的な地点を見逃してしまう。
ラカン→法を禁止的でかつ産出的なものとして概念化する批評を作り出すことになる。二分法の制約はいまだ作動して、現実界への抵抗形態をまえもって制限している。 さらなる疑問→象徴界の説明。失敗に対する宗教的な理想化がはたらいており、それがラカンの語りをイデオロギー的に胡散臭いものにしている。決して十全に実現されない法的な命令と「法のまえ」の不可避の失敗のあいだの弁証法は「旧約聖書」を思い起こさせる。
ラカンの理論のなかの宗教的な悲劇の構造は、欲望の戯れに向けてオルタナティブな想像の世界を描こうとする文化の政治戦略をことごとく空洞化してしまう。象徴界そのものが象徴界が命じる課題の失敗を約束するものならば、主体に「法のまえ」にいることの限界感をもたせる服従と苦悩を強制するもの。神への隷属。「奴隷の道徳律」
失敗を約束するように構築された法が徴候的に示しているのは、法を永遠の不可能性として構築するために法が使っている産出能力に対して、そんなことはありえないと否定する奴隷の道徳律である。

研究会での報告(女性と文化研究会)

レジュメ2002@粟谷佳司



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