『全−世界音楽論』を読む(2003) 粟谷佳司
グローバライゼーションの進行と「帝国」的な状況に対抗する運動としての、反グローバリズム、反システム運動、帝国に抗するマルチチュード、そしてリクレイム・ザ・ストリート・・・。このような運動に音楽を連携させる「場所」を探っていくことが、東琢磨氏の一連の著作におけるテーマのひとつであろう。
『ラテン・ミュージックという「力」』に続く著作は、『全−世界音楽論Coming Community Music』と名づけられている。全世界音楽論Coming Community Musicとはどういうことか。これは、序章でも触れられているように、エドゥアール・グリッサンの『全-世界論』とジョルジョ・アガンベンの『来るべき共同体』から(そしてそこに、エイジアン・ダブ・ファウンデーションの『コミュニティ・ミュージック』をつなげて)つけられたものだ。
ここから浮かび上がるテーマは、さまざまな領域を介して綴られる音楽の<関係性>、あるいは、そこに現れる音の共同体の「場所」を捉えるということである。それはまた、グローバル化という政治経済的な強者によって押し付けられる諸力から身を守るために、グリッサンのいう「不透明性」を擁護するということである。そして「全−世界音楽」を通奏低音として、階級、エスニシティなどのアンサンブルとしての音楽、ジャズ、ボサノヴァ、そしてヨーロッパのさまざまな場所で奏でられる少数者たちの音楽実践が記述されている。
すでに『音の力』、『シンコペーショーン』などに発表されていた「1 路上の天使」所収の論考には、マイク・デイヴィスなどの都市論、リクレイム・ザ・ストリート、そして小さな場所論とつづきながら、そこにヴァルター・ベンヤミンの議論がイタリアの哲学者マッシモ・カッチャーリの天使論に媒介されながら都市空間における路上と音楽をキーにしてアクチュアルに展開されている。カッチャーリもジンメルの古典的都市社会学からベンヤミンにつながる都市論を展開していたということを想起しておいてもいいかもしれない。
ここでベンヤミンなどを介して描き出されているのは、階級、エスニシティなどに媒介された第三世界の国々やマイノリティのミュージシャンの実践がアメリカにおける都市空間の変容と不可分に結びついているということである。すでにラテン・アメリカ・ミュージックという問題圏については『カリブ ラテン・アメリカ 音の地図』、『ラテン・ミュージックという力』において詳細に論じられているが、本書には音楽のみならず芸術や小説などの分野で展開されているさまざまな移住者の文化という実践が登場する。もちろんこれはマルチカルチュラルな国においては何ら特異な現象ではない。むしろ、このような複数性をワールド・ミュージクというどこか遠くにあって音楽消費のためのインデックスに回収させてしまうことが問題だろう。ポピュラー音楽ひとつをとってみても複数性から考察されなければならないのである。
あるいは、都市空間の変容については、カナダ出身のジャーナリスト、ナオミ・クラインの『ブランドなんかいらない』から引用されたリクレイム・ザ・ストリート(ストリートをとりもどせ)というストリートでレイブなどを繰り広げる運動からも照射される。レイブやハウスはもともとは小さくて自発的な場所で始まったわけだが、本書のスタンスはそのような行動を資本に回収される前のところでとどまりながら記述するということである。ストリートにおける音楽実践の問題は、権利の問題として、例えばイギリスでは路上で踊ることを禁止したレイブ禁止法に反対するアルバムにプライマル・スクリームが曲(クラッシュの「ノウ・ユア・ライツ」のカヴァー)を提供するように政治と関わりが深いのである。
また、天使論において言及された音楽のモーメントは、アヴァンギャルド・ジャズのドン・チェリー論にも変奏されていく。例えば、ドン・チェリーにおける神秘主義的なテーマ、「コミュニオン」がそれだ。これは音楽の複数の要素が「共同」する「完全なる共有」と訳され、そこにはスピリチュアルなニュアンスも織り込まれている。そしてそれは、オーネット・コールマンのいう「エモーション」と「自由」の問題である「音響民主主義」にも通じているだろう。あるいはそこに、アメリカにおけるラディカル・ブラックであるリロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)がいう、ブルースやR&B、ジャズなどに変奏されながらも「同じもの」である「チェンジング・セイム(変わってゆく同じもの)」という「秘教的」なテーマが絡み合う。たしかに、ジョーンズもアイラーやコールマンなどの音楽から「スピリチュアル」なものを論じていた。これらが重ね合わされながら、来るべき音楽の共同体が構想されるだろう。
音楽の複数性、そしてその関係性のなかから現れる共同体の「場所」を探る『全‐世界音楽論』は、音楽が消費のツールとなってしまったことが当たり前の<J>の環境でそれに対抗する地点にとどまりつづけながら音楽を聴き、批評するという可能性と方向性を示している。ここで取り上げられているミュージシャンたちの闘いの記録から読み取るべきものは多い。
図書新聞2647号(2003-9-27)8面
テクスト2003@粟谷佳司
HOME
|