テクノロジーと反復についてのノート(2003)  粟谷佳司

  (略)

   ところで、CDによるサウンドのデジタル化、インターネット環境におけるmp3、CCCDなどのデジタル・メディアとポピュラー音楽という問題系を考えるときに、テクノロジーという問題にさかのぼって考察することは有用であると思われます。例えば、Strange Soundsという書物やKey terms in popular music and cultureのTechnologyの項目などにおきましても一見古く考えられるかもしれないテクノロジーの社会理論の問題から始まっています。これは例えば、サウンド・デモやレイブなどにおけるテクノ(ロジー)サウンドの「反復」、「快楽」の問題を考えるときにも参考になるものです。

    ここで思い起こしておきたいのは、ポピュラー音楽は録音、複製と深く関わっているために技術・テクノロジーとは不可分であるということです。その端的な例が、テクノ・ハウス以降のシーケンサーを使った音楽製作であろうと思われます(もちろん人間が演奏するものであっても、音の拡張、録音、複製と関わる以上、それはテクノロジーと接合されていくわけです)。例えば、野田努さんが書かれたそのものズバリのタイトルで『ブラック・マシーン・ミュージック』という本もあるほどです。しかしこれはポピュラー音楽研究の抱える難点のひとつがあろうかと思われますが、美学・芸術学の古い?議論におきましては、ポピュラー音楽はテクノロジーに媒介されているので純粋なものとは考えられていないところがあってそこが問題になっていると思います。そこで、この問題に関する古典的な社会理論につきまして、これから簡単に触れることにいたします。  

   テクノロジーと音楽の問題については現在では質的な変化もあると思われますが、ここではフランクフルト学派の哲学、社会学者であるアドルノの議論を参照することにしたいと思います。アドルノの「ポピュラー音楽について」(『アドルノ 音楽・メディア論集』)という論文があります。これは20世紀の音楽社会学の古典といってもいいと思われます。彼の論文についてはわたしが友人たちと一緒に書きました書物(『ポピュラー音楽へのまなざし』)の中で少し触れています。これは彼が亡命中のアメリカで接した大衆社会といいますか文化産業批判をポピュラー音楽から意図されたものであります(といってもここでは端的にジャズですが)。ここで注目したいのはテクノロジーにかかわる問題です。  

   ここで攻撃されているのは、資本主義によってもたらされたポピュラー音楽、それをもっとも体現しているジャズのリズムの反復とその聴取のマゾヒスティクな耳の飼い馴らしであります。アドルノによれば、リズムは「機械時代」に象徴されるようにその単調で反復的なビートを基調としていて、それを聴く若者は権威主義に対してマゾヒスティックに適応しているということです。そして、このような音楽(つまり商品)への受容スタイルに対するフェティシズムは、マゾヒズム的な大衆文化につきもので、ここで聴衆は「個人」であるはずもなく、「規格化された行動のパターンによって矮小化され」ているということです。  

   このように、アドルノのアメリカ文化産業批判は容赦ないのでありますが、しかし例えばアドルノの盟友であったベンヤミンは、アドルノとは異なり「複製技術時代の芸術作品」において複製技術がもたらす余暇空間について考察しています(多木浩二氏の議論を参照)。これは非常に示唆に富む記述であると思われます(このあたりの批判については、『ポピュラー音楽へのまなざし』所収の拙稿を参照。アドルノの議論については、2005年に刊行の著書で詳しく取り上げる) 。  

   このような前提によって、テクノ(ロジー)と「反復」、そして「快楽」の問題に考察を進めていくことが出来ると思います。  

  (略)  

日本ポピュラー音楽学会第15回大会シンポジウム(2003.11.29 於中京大学)
報告レジュメの一部から論旨を変更せずに2003.12.08、12.17、2005.04.26、2010.07.20に修正。
本稿の一部は、2008年刊行の著書に収録。

未完成のテクスト2004text2.html@粟谷佳司

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