アーティキュレーションに関するノート(1997) 粟谷佳司
0.はじめに
フレドリック・ジェイムソン*によって社会分析に「言説理論」を取り入れた研究者として参照されていたスチュアート・ホールの方法論の中心に位置するのが「アーティキュレーションarticulation」という概念だろう。しかし「アーティキュレーション」については、ジェニファー・ダリル・スラックスがいうように、これまで十分に議論されてこなかった。もともと「アーティキュレーション」の概念は、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフらによって既にその輪郭が与えられている。本稿では、それをルイ・アルチュセールの社会理論の受容と批判に絡めながら考察する。なぜなら、ホール、ラクラウ、ムフらはアーティキュレーションの概念を練り上げる際に、常にアルチュセールに言及しているからである。
従来の、ホールを中心としたカルチュラル・スタディーズの試みに対しては、ローレンス・グロスバーグに顕著なように、アルチュセールの影響は取り上げられることが多かった。しかし、ラクラウ、ムフの観点に遡りながらアルチュセールの議論を検証する必要があろう。そうすれば、ホールがアルチュセールの「重層的決定」や「複合的全体」、「差異」を彼の方法論に取り入れるために、「アーティキュレーション」の概念がどのような役割をはたすのかが理解できるだろう。特に1985年に書かれたアルチュセール批判の論文にその一端を見ることができる**。
そして、このようなアプローチは、グラムシの影響(例えば、「ヘゲモニー」概念)や、方法論において多用されるその他の重要な概念(「イデオロギーideology」、「表象representation」、「意味作用signification」、「言説discouse」)、また、ここから導かれるホールのいう「意味作用の政治学The politics of signification」がどのような性格のものであるのかという理解にもつながるだろう。
現在の視点から振り返ってみると、アルチュセールは60年代にヨーロッパを席巻した構造主義とネオ・マルクス主義のある意味での象徴であり、その可能性と限界を一身に背負いながらそれらの動向の臨界点をなしていた。従ってラクラウらも、常にアルチュセールに言及しながら乗り越える必要があったのである。
*『ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の論理』デューク大学出版
**"Signification, Representation, Ideology: Althusser and Post-Structuralist Debate" Critical Studies in Mass Communication.Vol2.no.2
1.アルチュセールのディスクール
アルチュセールは、本人は否定しているにも係わらず「構造主義」を代表する思想家として知られている。そして、また、ステュアート・ホールなどによってもそのように分類されおり、彼の社会理論に対しても一定の評価が与えられている。では、アルチュセールのどこが「構造主義」者といわれるのか、彼の採用した社会理論を考察していくことにしよう。
まず最初に、アルチュセールの社会理論を考える上で、その方法論における「理論的アンチ・ヒューマニズム」が有名だが、彼は『マルクスのために』に収められた諸論文でその方法論を練り上げていった。そして、アルチュセールは社会を説明するときに、人間主義(ヒューマニズム)と呼ばれる具体的な人間を中心にしてそこから社会が展開するというような方法論を取るのではなく、社会をそれ自体構造として捉える観点から出発しようとするのである。これがアルチュセールの採った理論的アンチ・ヒューマニズムという方法論であった。この時期のアルチュセールの理論的な営為において賭けられていたものは、このことに帰結する。そして、それは彼の卓越したマルクス読解によってもたらされたものであった。
もちろんアルチュセールは人間そのものを否定しているわけではなく、人間というような観念(彼によるとブルジョア・イデオロギー)がどのように析出されているのか、その条件を明らかにするためにこのような方法をとるわけである。ここからアルチュセールは、「人間」によらずに「構造」を中心とした社会理論を構想することになる。
では、「構造」を中心として、アルチュセールは社会をどのようなものと捉えているのか。そして、社会はどのように維持されているのか。
アルチュセールは、社会編制(政治的、経済的、イデオロギー的)は、ヘーゲル流の「それぞれの要素が、「全体的部分」として、全体性全体を表出するするものであるような、「精神的」全体を有することをまさに前提に」する、「その原理として、問題の全体が単一の内在性をもった一つの原理、すなわち一つの内在的本質に還元される」といわれる「表出的因果性」のカテゴリーで考えることが出来ない、という。ここでいわれているヘーゲル流の「全体性」とは、歴史に外在する「精神」という本質である一つの中心を備えた構造なのである。しかし、アルチュセールは、そのような単一な中心が想定される「全体性」を、社会編制を構造化された「複合的全体」として区別している。アルチュセールのいう「複合的全体」は、その後の文化研究において大きな影響力を持った(1)。
では、アルチュセールは、構造をヘーゲル的全体性からどのように区別したのだろうか。
ここで登場するのが、「表出的因果性」に対比される「構造的因果性」という概念である。「構造的因果性」を導入することによって、全体が、構造的なものとして、つまりヘーゲル的全体性という統一体のタイプとは全く異なった統一体のタイプを保有するもとして措定され、事情は異なったものとなる、ということである。
ここでアルチュセールはヘーゲルにみられるような「原因」を「精神」に求めるやりかたを目的論であると強く非難しているのである。アルチュセールによれば、そもそも「原因」という「本質」を措定することが誤りであり、「構造」とは、「原因」さえもが「結果」に既に内在しているというような、構造自体による構造の閉じられた円環の内部での再生産が強調されているのである(2)。そして「構造」と呼ばれるものは、経済に外在し、結果として全ての現象を統括するというようなものとしては想定されていないのである。ここで構造は「経済的諸現象」に「外在」していないということは留意しておく必要があるだろう(これについては後述)。
また、アルチュセールのいう「複合的全体」は、社会の「相対的に自律する」諸審級が「重層的に決定」された形を含み込んでいる。ここでいわれる「重層的決定」とは、社会編制を、上部構造、土台、イデオロギーなどの諸々の要素によって重層的に決定されたものとして構想するものである。
このような「重層的決定」は「最終審級における経済の決定」からは「相対的自律性」を獲得している。
しかし、注意しなければならないことは、この複合的全体は、諸審級は相対的には自律していても、一つの要素が支配的になっていて、それを決定するある原理によって統一されている。それが経済の審級である。これが「最終審級における経済の決定」といわれるものであり、社会編制においてどの要素が支配的になるかは、経済的土台が最終審級において決定するといわれている。だから、やはり重層的決定も相対的にしか自律していないのであり、最終的あるいは最終審級においては経済の決定を免れえない。もちろん「最終審級における経済の決定」とは、社会の諸審級の「相対的自律性」においては不在であり「最初の瞬間にせよ、最後の瞬間にせよ、「最終審級」という孤独な時の鐘が鳴ることはけっしてない」のだが、ラクラウのいうように、「たとえアルチュセールが主張したように、最終審級における経済の決定が決して到来しないものなのだとしても、それはそこらじゅうにあり、彼のディスクールにおいてまさにいくつかの理論的効果を生産しているのである。」
つまり、アルチュセールのいう「最終審級における経済の決定」は、不在の現前として常に前提にされており、そして最終的に決定される構造の再生産による「原因」が内在する「結果」として描かれているのである。
確かに、アルチュセールのいう社会は、既に構造化された構造の内部で「原因」によらずに「結果」を「構造」の再生産によって自己産出していくというプロセスが強調されていた。そして、そのような構造は中心を欠いているとされるのであるが、ここで重要な役割を演じるのが経済の審級であった。結局のところ、これは全てを経済によって説明しようとする「最終審級における経済の決定」を言い換えたものに過ぎないのである。アルチュセールも、不在の現前であれ何であれ、最終的には「経済」という「本質」を措定してしまっているのであった。そのため、アルチュセールの議論は「正統派」として、バリー・ヒンデス、ポール・ハーストらの「ポスト・アルチュセール派」や、ラクラウ、ムフなどに批判されることになるのである。
アルチュセールの「重層的決定」の概念などは、ステュアート・ホールによっても評価され、彼の方法論にも引用されているのだが、いくつかの保留がつけられている。やはり、それは「最終審級における経済の決定」や「構造的因果性」の問題である。
2.アーティキュレーションについて
ラクラウとムフは、アルチュセールが成し遂げることが出来なかった「社会的全体性」のなかに本来の意味での「重層的決定」を介入させるために、「ヘゲモニー」概念の再構成と、それが現れる条件である「アーティキュレーションの実践」を中心的な課題として彼らの社会理論を構想している。そのためには、アルチュセールの基本概念を崩壊させるようなやり方で急進化させる必要があった。
ラクラウやムフは、アルチュセールの「重層的決定」の含意が、本来は社会が本質による必然性に還元されるものではないということを鋭く看取っている。そして、アルチュセールの「経済による最終審級の決定」を「重層的決定」から分離させることによって、アルチュセールにさえもつきまとっていた本質主義の批判を徹底していくことをその課題としたのである。
(1)社会の不可能性
アルチュセールの理論構成については、「重層的決定」という実りの多い概念が、「最終審級」における「経済の決定」という概念に収斂させてしまうことによる、機能主義的な予定調和のモデルになっているということに対する批判であった。
確かに、アルチュセールの「構造的因果性」の概念は社会の複合的性質をあらわすのに重要な貢献があった。しかし、ここでは、ヘーゲルのいうような「精神」が「経済」に置き換わっているだけであり、「原因が内在している結果」という折角の因果的な「本質」批判が、「経済」という因果的な「本質」に収斂されることになってしまっている。また、これでは社会の本質的な不可能性を示すことになる「重層的決定」や「差異」の概念が活かされず、本人は否定しているにも係わらず、機能主義的な予定調和のモデルとなってしまっているとの批判をされることになる(このことに対するアルチュセールの返答は、「国家のイデオロギー装置のために」)。
また、アルチュセールが最後のところで「最終審級における経済の決定」を維持するために、彼の議論が齟齬をきたす。ラクラウとムフこの点を鋭く衝いている。
ラクラウとムフは、ここから、経済決定の不可能性を示すことによって、社会の統一性に疑問を呈する。そして、「重層決定」を「最終審級における経済の決定」から分離させることによって、社会というものは、ヘゲモニックな「差異」をはらんだ偶発的変動の場として定義されるのである。
ラクラウは最終的には、結局のところアルチュセールでさえも乗り越えることが出来なかった、一つの支配的な構造(あるいは生産様式)によって統一体をなしているというような社会の構想は不可能であるという結論に達することになる。そして、アルチュセールのテーゼから「最終審級における経済の決定」さえも取り払ってしまって、社会を偶発的な諸要素の「差異」のせめぎあいと捉えるのである。
(2)ヘゲモニーとアーティキュレーション
ラクラウとムフは、ヘーゲルからアルチュセールへと続く社会編制を予定調和的な全体性と見る思考に対して、そこにヘゲモニー概念を導入することで、偶発性が生まれるという。
社会編制にヘゲモニー概念を導入するにあたって、ラクラウとムフは、アルチュセールの「重層的決定」という実りの多い概念が「経済による最終審級における決定」に収斂されてしまうことを批判し、そこから「重層的決定」を分離させながら彼らの社会理論に取り込んでゆく。ここで、ラクラウらはこの「重層的決定」という概念が精神分析学から借用された際のもともとの意味に注目する。精神分析においては「重層的決定」は、象徴的次元の場において構成される意味の「融合」であるとされる。ソシュールに始まる記号論の指摘を待つまでもなく、意味表現(シニフィアン)と意味内容(シニフィエ)の間には必然的な結びつきはないのである。むしろバルトの記号論などの有名な図式では、意味表現は過剰なものとして描かれている。そうなると、アルチュセールのいう社会的なもののなかに一切が重層的に決定されているとは、社会的なものが象徴秩序によって構成されているということになるだろう。だから、そのような象徴秩序においては、原因となる本質とその現れである現象というような二分法で採用されるような社会関係を欠いているという事になるのである。
しかしアルチュセールは、このような実り多い概念を、「経済による最終審級における決定」という「本質」に最終的に還元してしまうことによって、「重層的決定」を結果的に予定調和として収斂させる単純な決定に陥れたというのである。
ここから、ラクラウらは「重層的決定」を定義し直し、「社会的なものthe social」を、合理的で組織的な構造である「社会」から区別しながら、現在みられるような「新しい社会運動」は「社会」に対して「社会的なもの」の「過剰」を示している、という。ここでは、「社会的なもの」が常に「矛盾」や「差異」をはらみながら構成されていて、それはもちろん最終的に経済においては決定されずに、過剰なものを内包したものとして捉えられているのである。たしかに、「重層的決定」という訳語は、そもそもその原語に照らしてみると、「過剰決定」と訳すことが出来るわけであり、ラクラウらはアルチュセールの定義をこの術語の持つもとの意味に戻したといえるのではないだろうか。そして、ラクラウはこの「重層的決定」により、「社会の不可能性」という命題に達することになる。
しかし社会が偶発的であるとするならば、それはカオスの様相を呈することになる。しかし社会は依然として支配的なイデオロギーによってその綻びを縫い付けている。その状態を理解するために、そしてそこから新たな社会変動の可能性を議論するためには、アーティキュレーションを理解することによって、ラクラウがそこにどのような意味を込めているのかを知る必要がある。ラクラウはそのような場を記述するために、ヘゲモニーとアーティキュレーションの概念を導入するのである。
ラクラウとムフは、アーティキュレーションをヘゲモニーと関連づけながら、次のように規定している。すなわち、アーティキュレーションは、ある状態において二つの異なる社会的な諸要素を区分けし、かつ結びつける言説的実践である。このような諸要素が結びついたものが言説と呼ばれる。そして、言説の中で接合されているものが「契機」と呼ばれ、言説的に接合されていないものの全てが「要素」と呼ばれる。
アーティキュレーションによって「諸要素」は統合されるが、それは断片化する前の本質的な全体性へと統合するのではなく偶然的に結合して組織する。ラクラウらは、対象として認識されるものを所与のものとは考えずに、それは常に「言説的全体性discursive totalities」の内部で接合されたarticulatedものと捉えている。つまり、アーティキュレーションは本質的には何の結びつきのない要素を言説的に結びつける実践なのである。
先ほど考察したように、ラクラウらがアルチュセールの「過剰決定」を重視し、合理的で組織的な構造へと閉じられる「社会の不可能性」を宣言するのは、このような理由によるものであった。つまり、ラクラウらの言う「社会的なもの」は、完全に固定されることのない想像的な「過剰決定」の場として想定されるのである。だから、アーティキュレーションにおける「社会的なもの」は、閉じられた構造とは矛盾し、常に「過剰」に対して開かれていることになる。「差異」の運動もここから導かれるだろう。
そして、ヘゲモニーが出現する一般的な場におけるアーティキュレーションは、「諸要素」が偶発的に言説化される闘争の場として想定されているのである。これがラクラウらのいう「社会的なものの論理the logic of the social」なのである。ここから言説の闘争の可能性も出てくるだろう。
完全版は2008年刊行の『音楽空間の社会学』青弓社に収録。
1例えば、芸術研究におけるアルチュセールの貢献については、ジャネット・ウォルフの著作のなかで述べられている。
2再生産過程が原因によらずに結果を円環の内部で産出することは、経済学においては既に指摘されている。
「カルチュラル・スタディーズと「意味作用の政治学」」『同志社社会学研究』創刊号(同志社社会学研究学会1997年)の一部を改稿。
テクスト(20040115-0809,20050316,20051223,20070516,20081224)@粟谷佳司
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